これまでの生い立ちと現在に至るまで
僕は現在、22歳になったばかりです。
就労継続支援B型事業所に週5日間通っており、通い始めて3年近くが経過しようとしています.
高校を卒業し、自立のための就労を目指してB型事業所に通い始めましたが、小さな成長や進歩はあるものの、就労に至るまではまだまだ程遠い状況です。
僕には発達障害があり、対人関係などの特定の状況に対して過度の不安や恐怖を感じてしまうという二次障害のような症状もあります。
発達障害と診断されたのは中学生の頃でしたが、思い返せば幼少期の頃から発達障害の特性や不安な症状があったように思います。
今回はそんな僕の、これまでの生い立ちについて書かせてください。
まず幼少期についてです。
僕は2000年の4月にシンガポールで生まれました。
その後、幼稚園の最初の2年は中国の上海で過ごしました。
その幼稚園は日本人幼稚園だったので、言葉や文化の違いなどにそこまで苦労することはありませんでした。ですが、当時から他の子と比べると、新しいことに臆病で慎重な性格だったと母が言っていました。
僕自身はシンガポールや上海に住んでいたころの記憶はあまり覚えていないのですが、ところどころ覚えている記憶は、先生に怒られたときのことや、ハロウィン大会でのおばけの仮装が怖くて泣いてしまったときのことなど、あまりいい思い出がありません。
当時から不安や恐怖には敏感だったということなのかもしれません。
その後、日本に帰国し、現在の埼玉県に住み始めます。
ちょうど幼稚園の最後の1年だけを埼玉県の幼稚園で過ごしたのですが、このあたりのことからは今でも記憶がはっきりしていることが多いです。
といっても、上海の日本人幼稚園同様に嫌なことの記憶が多かったからです。
特に嫌だったのが、給食と体操の時間でした。
給食に関しては、当時は偏食が激しく、また発達障害特有のこだわりもあり、あらかじめ決まったメニューを決まった食器で、決まった環境で食べなければいけないのが苦痛でした。
一度、給食のメニューのすべてが苦手な食べ物で、食べられるものがないといった状況になったときは調子が悪いと休んだこともありました。(不安から多少の体調不良だったのは事実ですが休むほどではありませんでした。)
そして最も嫌だったのが体操の時間でした。
体操の先生がとても厳しく、うまくできないと徹底的に厳しい口調で叱る先生でした。
他の子は1年目から経験していたので、技などもある程度できる子が多かったのですが、僕は最後の1年だけだったので、途中から入った形となり、一人だけできずに叱られ、みんなの前で恥をかくといったことが毎週のようにありました。
そして今思えば、現在の自分の特性がこの頃から表れていたと思います。
それは対人関係の問題です。
上海の日本人幼稚園にいた頃は、休み時間に他の子たちと一緒に遊ぶことが多かったと記憶しているのですが、日本の幼稚園に編入してからは一緒に遊ばず、一人で砂場で遊んだり、道具を使って一人で遊んだりといったことが多くなりました。
当時は無意識のうちにそうしていましたが、今思えば、対人関係を避けていたのかもしれません。
当時から他の子に自分から話しかけるのが苦手で、遊びたくても誘えないこともありましたし、他の子と一緒に遊ぶことで、自分のペースでできないのが不安だったように思います。
そうした特性がありながらも、まわりの大人から心配されたり、何か指摘されるようなことはありませんでした。
小学校に入学し、幼稚園とは違ったリズムの生活が始まると、人見知りや対人関係の苦手な部分が苦痛に感じるようになっていきました。
幼稚園までは、自分のペースで対人関係を避けていれば、それでよかったのですが、小学生になったあたりから、周りの顔色が気になるようになってきたのです。
放課後に一緒に遊ぼうと誘われたときでも、本当は一人で家で好きなことを一人でしたいのに、断り続けて嫌われるのではと不安に感じ、無理やりOKするなんてこともよくありました。
休み時間は、遊びに誘われない限り、校庭の裏側の他の子たちがいないスペースで一人で考え事をしたりすることも多かったです。
それでも対人関係については、小学校の低学年のうちは、まわりの大人から心配されることもあまりなく、自分自身でも「こんなもんなんだろうな」と考え、我慢しながら過ごしていました。
小学校の低学年でもう一つ嫌だったのが、給食の時間です。
幼稚園同様に、決まった場所で、決まった食べ物を、決まった食器で食べなければいけないことが苦痛でした。
特に2年生のときの担任の先生は、給食にこだわりがあって、「残してしまっては作ってくれた人や生産者に申し訳ない」と考える人でした。
給食の時間が終わるチャイムが鳴ると、まず完食した人が食器を片づけ、次に残しているメニューが一つだけの人が片づけ、次は残したものが2つの人が片づけ……..と順番に片づけていくのがお決まりでした。
それも機械的にただ順番なだけなら、まだ順番を待てば良かったのですが、順番を待っている間や先生がしびれを切らしてすべての人が片づけて良いと諦めたときなどに、ネチネチと嫌味のようなことを言われるのです。
「作ってくれた人に謝らなきゃね」「いつもいつももったいないことばかりして申し訳ないと思わないの?」といった感じのことを毎日のように言われました。
加えて、クラスの優等生キャラ?みたいな子や、学級委員キャラ?みたいな子の何人かが先生に便乗し、「今日は残したらダメだよ」「なんでいつも食べられないの?」と圧をかけてくるのです。
小学校2年生のときはそのことに悩んでばかりでした。
逆に小学校3年生のときの先生は、やさしい先生ではありませんでしたが、一人ひとりの個性を見てくれる先生で、僕が給食が苦手だったりすることには、特に触れずにいてくれました。(そういったことよりも周りを気に掛けることや一生懸命でいることを重視していたように思います。)
小学4年生のときに、その後の人生に影響を与える経験をします。
4年生のときの担任の先生は女性だったのですが、一言でいえば「体育会系」でとても厳しい先生でした。
ただ、単に厳しいだけであれば、3年生のときの先生と変わりありません。
4年生のときの先生はそれに加え、考え方やタイプが僕に合っていませんでした。
まず、4年生になって3日目にいきなり「事件」が起きます。
身体測定をするためクラス全員で保健室に移動したのですが、その時に持っていかなければならない記録表のようなものを、一人だけ持たずに保健室に移動してしまったのです。
それは単に先生の話を聞いていなかっただけなのですが、保健室に付いてから挙手をして、それを申告すると、「なんで話を聞いていなかったんだ!」と激怒したのです。
そのときの口調は幼稚園の時の体操の先生に勝る恐怖を感じました。
それがきっかけとなり、僕はその担任の先生に恐怖を抱くようになります。
怒らせないことはもちろんのこと、機嫌の波が激しい人だったので、そこにも敏感になっていました。
それまで苦手だった給食については、それほど厳しくなかったのですが、何かにつけてスピード重視の傾向があったので、どちらかといえば行動がトロい僕は、その点も苦労しました。
そんな担任の先生のやり方についていけず、苦労している子は他にもいたようで、僕自身も親を通して、配慮をしてほしいとお願いはしていました。
それでも、返ってくるのは「あんたがもっと〇〇できたらいいね」「あんたの感じ方は〇〇だから」と僕自身の問題として語る言葉ばかりで、自分自身が変わろうとはしませんでした。
そんなこんなで、毎日のように恐怖心を感じながら登校し、時には叱られ、パニックになりながらも1学期は登校を続けました。
しかし夏休みを挟んで、2学期が始まった初日からとうとう登校することができなくなりました。
夏休みという長期の休みで、今までの緊張の糸が切れてしまい、新学期が始まるのが今までになく不安になってしまったのです。
今ではもちろん「不登校」という言葉もその意味も理解していますが、小学生だった当時の僕には子どもが学校に通わないという概念はなかったので、登校しない(できない)ということがすごく特別なことに感じました。今思えば、学校に行かないということを一つの逃げ道として前向きに捉えられれば良かったのですが、僕も家族もそのような感覚はあまりなく、あくまで一時的なもので、学年が変わって担任の先生が違う人になれば、また登校できるようになると考えていたと思います。(僕自身は先生が変わっても通えそうにないことはなんとなく感じていましたが。)
そのまま4年生の2学期と3学期は学校へはほとんど登校せずに過ぎていきました。
5年生になり、親や周りの人は「これで登校できるようになる」と思っていたようですが、そんな簡単な問題ではありませんでした。
なにより僕が気にしたのはクラスメイトの反応です。
4年生の2学期と3学期という長期間に渡って休んでいた僕ですが、その理由は表向きは「病気」ということになっていたからです。
友達がいなかったり、嫌われていたわけではないのですが、もともと相手がどう思うかや相手の反応を極端に気にするタイプだったので、堂々とクラスのなかに復帰していくことはできませんでした。
そのため新年度開始から完全復帰とはなりませんでした。
それでも徐々に得意な科目の授業などから出席していき、少しずつ元通りになっていきました。
ただ、それは僕にとって嬉しいことだとは感じていませんでした。
担任の先生への恐怖心は薄れたのですが、小学校低学年から続く、対人関係の問題は解決されていなかったからです。
それどころか、相手の顔色を伺いすぎてしまう性格はここにきてもはや完成されていたように思います。
5年生の1学期が終わるころには、体育以外のすべての教科に出席し、表向きは「不登校から脱却」した感じになっていたのですが、一方でそれは本当の自分を出せず、常に周りの顔色を伺うという時間が復活したに過ぎませんでした。
その我慢と緊張の生活も、夏休みを挟んだことにより限界を迎えます。
またしても2学期から登校できなくなってしまったのです。
ただ、4年生の時のようにまったく登校せずに家で過ごすというわけではなく、通えなくなってすぐに、「ニコニコ相談員」という相談員の人と空いている教室で一緒に過ごすようになります。
5年生はその「ニコニコ相談員」の人と空き教室にて過ごす日々が続きました。
6年生になると、「ニコニコ相談員」の制度が廃止され、その人が学校を去ってしまいます。
すると、以前から交流のあった校長先生が校長室に登校することを許可してくれます。
6年生の間は、その校長室で勉強を教えてもらったり、将棋をしたりして過ごしました。
休み時間などに定期的にクラスメイトを呼んだりしてくれたので、同級生との交流も途絶えたわけではありませんでした。
小学校はそのまま卒業することになります。
中学生になり、初日はクラスに合流して過ごしてみたものの、別の小学校からきた生徒の視線や雰囲気が耐えられなくなったため、次の日からは教室に入りにくい子や、事情を抱えた生徒が集まる相談室に通うようになりました。
1年生の頃は、安定して通うことが出来ていたのですが、2年生になって相談員の人が変わったことで、今までと違った雰囲気ややり方となり、登校するのが苦痛に感じるようになっていきます。
加えて、今まで人の顔色を伺いがちだったのが、本格的となり、このころから対人恐怖のような症状を自覚し始めます。
それまでも他人の評価や顔色に敏感ではあったものの、何もない限りは、ぎりぎり大丈夫でした。
しかしこの頃から、ただ普通に会話するだけでも「〇〇に思われたらどうしよう」とか「〇〇と思われたら嫌だな」と考えるようになり、うまく話せないことが増えました。
中学校の2学期まではなんとか登校できていたものの、3学期から登校しなくなります。
登校できなくなったというよりは、そこを重視しなくなったといった感じです。
というのも、この頃から私生活のほうでも不安が強くなり、まともに外出することができなくなっていたのです。
学校だけは行けていたのですが、将来の為には無理に学校に登校し、他のことができなくなってしまうくらいなら、学校に縛られず、今のうちに外出のための訓練をしたほうがいいという考えになり、無理に登校するのをやめました。
そのかわりに、少しづつ外出するようにし、距離や時間もだんだんと延ばしてゆきました。
中学校を卒業するころには、一人でなければ少し遠くの場所でも外出できるようになりました。
ただ、電車などの公共交通機関は苦手で、外出は車ですることがほとんどでした。
学校も、中学卒業後は高校進学を目指していたなかで、不登校や登校に難を抱えている生徒を積極的に受け入れ、支援も手厚い学校を見つけました。
当時は徐々に外出はできるようになってはいたものの、一人でできたわけではなく、集団生活をすることにもかなり不安があったため、選択肢は他にありませんでした。
その高校は家から電車で一駅のところにあり、正確には高校ではなくサポート校(通信制高校の単位を取得する手助けをしてくれる学校)だったのですが、通信制高校と連携しており、そこに通っていれば単位が取れるという、当時の僕にはかなり良心的な条件でした。
加えて、集団で授業を受けなくても、個別で学習することができたので、まずはそこからスタートしました。
通学手段に難はありましたが、行きは車で送ってもらい、帰りだけは一駅だけ電車に乗ってみるという毎日でした。
時期やその日の調子によって電車が苦痛に感じたりすることはありましたが、週に4日の2時間だけ通学し、卒業することができました。
おそらくこの学校でなければ、当時の僕は安定して通学することも、卒業することもできなかったと思うので、この学校が近くにあって良かったと思っています。
高校卒業後の進路については、卒業前から考えてはいたのですが、なかなか方向性が定まらずにいました。
一時は通信制の大学への進学を考えたりしたのですが、スクーリングを受けるために定期的に通わなければならないこと、通学手段に難があることなどがネックとなり、今の自分には厳しいと判断し断念しました。
となれば、就職など自立するための足がかりを目指したいところですが、決められた日時に決まったリズムで通って仕事をするのは、あまりにハードルが高すぎます。
そこでまず、目を付けたのは就労移行支援です。
家の近くの就労移行支援事業所を訪問し、制度や支援の内容を聞いたりしました。
しかし、支援を利用できる期間が2年間と制限があることが気になりました。
加えて、利用者同士の雰囲気や集団で何かをするということに強い不安を感じました。
そのときの自分にはこの条件で2年間の間に就職できる自信はまったくありませんでした。
そうした気持ちを、率直に就労移行支援事業所のスタッフに打ち明けたところ、紹介されたのが就労継続支援B型事業所の存在でした。
紹介をされてすぐに、近所の就労継続支援B型の事業所を何件も訪問し、見学したり話を聞いたりしました。
そして一番良かったところで体験利用を始めました。
しかし、狭い空間に幅広い年代の人が大勢いる雰囲気に慣れていなかった僕は、ここでも強い不安を感じました。
スタッフの方は親切でしたし、特に嫌なことをされたりしたわけでもないのですが、いきなり集団のなかで慣れない作業をするのは不安で仕方ありませんでした。
そんなときに体験利用していた施設よりも、家から近いところに新しくB型事業所が開所したとの情報を得ました。
問い合わせてみると、まだ利用者はだれもいないとのことでした。
あらかじめ完成された集団のなかに入っていくのは不安が強いですが、自分が初めての利用者で、徐々に他の利用者を向かい入れていく形であれば不安が少ないと感じた僕は、その事業所での体験利用をしてみました。
利用者が誰もいない環境は快適で、不安もなく、一か月後くらいには正式利用することを決めました。
その後はスタッフが立て続けに入れ替わったり、多くの利用者が入ってきたりしましたが、段階を踏んで、一歩ずつチャレンジできたことで、以前よりも不安を感じなくなりました。
最近は新たな課題や悩みも出てきましたが、通所を続けることはできています。
ただ、ここから先の展開になかなか進めずにいます。
今の条件で通所を続けることはできると思うのですが、ステップアップするとなると、まだ不安が強い状態です。
粘り強く、継続して通所を続けていれば、何かきっかけがつかめる日がくるのではと願い、日々通所を続けています。
以上が僕のこれまでと現在の状況です。
これまでの経験から僕が学んだことは、「冷静に前向きに判断する」ことです。
たとえ失敗したり、うまくいかなくても投げやりになったり、無理をして強引に突破したりしようとせずに、その時々で最もベストな選択をすることが大切だと感じています。
たとえそれが、前進でなかったり、小さな一歩にしかすぎなかったとしても、無理をしたり、投げやりになるよりもプラスになると思います。
そして、進歩できていないと感じた時や、将来を不安に感じた時は、できるだけ「今のこの状況には意味がある」と考えるようにしています。
前向きに考えることで、不安を軽減し、次の一歩にチャレンジできる余裕を生み出しているのかもしれません。
そこも重要だと思います。
当初は発達障害のことについて、もっと触れるつもりで書き始めたのですが、気が付けば体験談や経験値が中心になってしまいました。
きっとそれは、発達障害であるという事実よりも、これまで経験してきた出来事のほうが僕にとって大きな意味があるからこそ、そういった文章になったのかなと思います。
これからどのくらいのペースでどのような経験をするのかは分かりませんが、これまでの経験を活かして、将来も良いものに出来たらと思っています。
かなりの長文になりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
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